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あなたがたも聞いているとおり、「隣人を愛し、敵を憎め」と教えられている。
しかし、わたしは言っておく。敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。
あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくれるからである。
自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。
徴税人でも同じことをしているではないか。
自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。
異邦人でさえ、同じことをしているではないか。
だから、あなたの天の父が完全であられるように、あなたも完全な者となりなさい。
・・・だから、こう祈りなさい。
「天におられるわたしたちの父よ、
御名が崇められますように。
御国が来ますように。
御心が行われますように、
天におけるように地の上にも。
わたしたちに必要な糧を今日与えてください。
わたしたちの負い目を赦してください。
わたしたちも自分に負い目のある人を赦しましたように。
わたしたちを誘惑に遭わせず、悪い者から救ってください。」
もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたの過ちをお赦しになる。
しかし、もし赦さないのなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しにならない。
(マタイによる福音書 山上の説教より)
イエスの言葉こちらでは新約聖書(各福音書)からイエス・キリストの言葉を見てゆく事とします。 さて、一人の男がイエスに近寄って来て尋ねた。「先生、永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」 イエスは答えた。「なぜ、善い事について、私に尋ねるのか。善いかたは神お一人である。もし永遠の命を得たいのなら、神の掟を守りなさい」この男が、「どの掟ですか」と聞くと、イエスは答えた。「『殺すな。姦淫するな。盗むな。偽証する(嘘をつく)な。父母を敬え。また、隣人(他の人々)を自分のように愛せよ』という聖書の掟である」 その青年は、「それらはみな守ってきたがまだなにか欠けているのでしょうか」と問い、イエスは答えた。「もし完全になりたいなら、家に帰って持ち物を売り払い、貧しい人々にあげなさい。 そうすれば、天に富を積むことになる。それから、わたしについて来なさい」 青年はこの言葉を聞き、悲しみながら立ち去った。たくさんの財産を持っていたからである。 イエスは弟子たちに言った。「はっきり言っておくが、金持ちが天の国に入るのは難しいことだ。 重ねて言っておくが、金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通るほうがやさしい」 弟子たちはこれを聞いて非常に驚き「それでは、だれが救われるのだろうか」と言った。イエスは彼らを見つめて、「人間には出来ないが、神は何でもおできになる」と答えた。イエスのこの言葉には、この世の存在者としての人間と、真の存在者としての神が簡潔に示されています。 イエスはたびたび完全なのは神だけであると説いています。 この世に生きている不完全な存在者としての人間が真に頼りにできるのは、完全な存在者(神)だけであることが説かれているのです。 弟子のペテロが、「自分達は何もかも捨てて従って来ているが何を得る事が出来るのですか」と聞いたのにたいしてのイエスの答えには次のような言葉がみえます。「わたしのために、家、兄弟、姉妹、父、母、妻、子供、畑、財産を捨てた人は皆、その百倍もの報いを受け、永遠の命を受け継ぐ。 しかし、先にいる多くの人があとになり、あとにいる多くの人が先になる」 以上マタイによる福音19章より(マルコ10章、ルカ18章) この言葉は、弟子の質問に対する答えとして語られました。 弟子たちはイエスのために家を去り、あらゆるもの(家、家族、財産)への執着(我欲)を捨てて従っていたのです。 しかし、この言葉は、すべての人々にとって、大切な意味を含んでいます。 家や家族や財産を捨てるというのは、決して自分勝手な理由のためであってはならないでしょう。 それでは天の国に入る(永遠の命を得る)ことの逆の(真の愛の無い)行為となってしまうでしょう。 ここでイエスがわたしのために、というのはイエスの説く唯一不変の真理、イエスの教えに従うためにという意味になるでしょう。 イエスは、家や家族や財産(最も身近で大切なもの)を表現することで、地上のあらゆるものに執着しない(我欲を捨てる)ことを説いています。 それは、地上のすべてのもの(全世界)を手に入れても、真の命(永遠の命)を失ってはなんにもならない、というイエスの言葉にも通じます。 最終的にはイエスは、真の命(永遠の命)のためには、この地上のすべてのものを(自分の命さえも)、捨てる(執着しない)ようにと説いているのです。 ここで誤解があってはならないでしょう。捨てる(執着しない)ということは、決して命を粗末に扱ってよいという意味にはなりません。 この世において、かけがえのない今現在の命であればこそ自分を大切にし、同じように他の命をも慈愛をもって大切に扱うことが必要です。 イエスは自分を愛するように隣人を愛しなさいとも説いています。 捨てるべきものは、真の慈愛にあたらない我欲(我がものという我執)を意味しているのです。 永遠の命を受け継ぐ(天国にはいる)人は先にいる多くの人が後になり、後にいる多くの人が先になる、との表現があります。 これは、天国に入る人の順列、順番は、地上の人間関係(人間が考える、前後、上下、表面上の善悪等)の価値基準とは異なってしまう事を説いています。 イエスは、真に偉い人を次のように表現しています。「人に仕える人が、もっとも偉大な者です。だから、まず仕える者になりなさい。 われこそはと思う(高ぶる)者は、必ず失望し(下げられ)、 一方、自分から身を低くする(へりくだる)者は、かえって高く上げられるのです」 以上マタイによる福音23章より ある時、弟子のヨハネとヤコブの母親が、イエスに願い事を言いました。 「天国でわたしの息子たちが、あなたに次ぐ者となれますように、一人はあなたの右に、もう一人が左に座れる事を約束してください」それに対して、イエスは次のように言いました。「あなたは、自分が何を願っているのか、その真の意味が分かっていない」さらに、ヤコブとヨハネに向かって言いました。「あなたがたは、わたしが飲もうとしている杯を飲む事が出来るか」 二人が「はい、出来ます」と答えると、イエスが言いました。「確かに飲む事になるだろう。だが、だれをわたしの右と左につかせるかは、わたしの決める事ではなく、天の父がお決めになることだ」 この二人の願い事を知って、他の弟子が腹を立てました。 それに対してのイエスの言葉があります。「この地上では、通常、支配者(権力者)が人々を支配し、偉いもの(上役)が権力を振るって、威張り散らすものです。しかし、あなたがたの間では、そうであってはならないのです。 あなたがたの中で偉くなりたい者は、仕える者になりなさい。 上に立ちたいと思う者は、奴隷のように仕える者になりなさい。 同じように、人の子(イエス)が来たのも、仕えてもらうためではなく、人々に仕えるために、この世に来たのです。 多くの人を買い戻す代価として、自分の命をささげるために来たのです」 以上マタイによる福音20章より イエスが自分のことを人の子と表現するときは、 特に、この地上の人間の子として生まれて(人々の魂の救済のために)来たことを表しています。 『 杯を飲む 』との表現は、この世で成し遂げられるイエスの運命(十字架上の死)を暗示しています。 ヤコブとヨハネも飲む事になるとは、二人がイエスの教えに従い、宣教をし、激しい迫害を受ける運命を暗示しています。 イエスは、天国での順位は、天の父がお決めになることであると言っています。 イエスの言葉のように、他の人に仕える者が偉い者とされる世界においては、きっと人々の平和と幸せが実現されるでしょう。 イエスは、イエス自身が、この地上に人に仕えるために来た、と言っています。 その弟子達にも見習うようにと説かれているのです。 イエスは、イエスの説く真理よりも家族や親族、友人を大切にする人はイエスの弟子にはふさわしくないと言い切っています。 イエスの説く教えに従うか、従わないかによって、人々の間に争い(反抗)が引き起こされると言っています。「息子を父親に、娘を母親に、嫁をしゅうとめに逆らわせるためです。人の最大の敵は家族の中にいるのです。 わたし以上に父や母を愛する者は、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。 また、わたしよりも息子や娘を愛する者も、わたしの弟子(信じる者)にふさわしくありません。 後生大事に自分の命を守ろうとする者は、それを失いますが、 わたしのために、命を失うものは、かえってそれを保つ(自分のものとする)のです」 以上マタイによる福音10章より(ルカ12章、14章) イエスは、父母を敬う(愛する)ようにと説き、隣人を自分を愛するように愛しなさいと、説いています。 さらに、それ以上に、何よりも大切なものを示しています。 イエスがこの世に来て、真理を説く事により、人々(家族等)の中にそれを信じる者と、信じない者との争いが起こる事は、不思議なことではありません。 イエスは、イエスの言葉(普遍の真理)に従うためには、あらゆる例外をもうけず、何よりも大切なものとするようにと、説いているのです。 さらには、イエスの言葉(真理)に従うためには、この地上の命に執着しないようにと言っています。 それが、永遠の命を得ることにつながると、説かれているのです。 イエスが聖書の言葉を引用しているときは現在の旧約聖書を指します。 真理についてのイエスの言葉があります。 イエスは、イエスの話を聞いてこれを信じたユダヤ人たちに言いました。「わたしの言葉を聞いてその教えのとおりに生活すれば、ほんとうにわたしの弟子といえます。 あなたがたは真理を知り、その真理があなたがたを自由にするのです」 以上ヨハネによる福音8章より イエスは人々に「わたしは真理を話している」と語りかけました。 その真理を知ることでその真理が自由にしてくれる。 そしてそれに従う(教えのように生活する)ようにと説きました。 真理を知りそれを実践することが大切(必要)であると説かれているのです。 イエスがなぜこの世に生まれたのかについて、イエスの言葉があります。 イエスはユダヤ教の大祭司らに捕らえられ死刑にするようにとの訴えで、 時のローマ総督ピラトの前に引き出されます。 そのピラトの「いったい何をしたのか」との質問に答えたのです。「わたしは真理を伝えるためにこの世に生まれ、そのためにこの世に来たのです」 以上ヨハネによる福音18章より イエスはこの世に真理を伝えるために来たと言っています。 イエスのこの言葉は、その後そのとおりに実現することになりました。 イエスの死(復活、昇天)後から現在に至るまで、イエスの言葉(真理)は世界中に述べ伝えられているのです。 さらには、この言葉の持つ一つの大きな意味は、イエスがこの世に生まれる以前もまたイエスがこの世を去った以後も、イエスの説いた(伝えた)教えは変わらずに普遍に存在する真理であるということにあるのです。 イエスは当時のユダヤ人に向かいやがて多くの信仰深い外国人が天の国で席につくと説きました。「いつか、東や西から大勢の外国人が来て、天の国でその席に着く。でも、もともと天国に入るはずの多くの人が、外の暗闇に追い出され、そこで泣きわめき、歯ぎしりして苦しむ事になるのです」 以上マタイによる福音8章11より イエスは東や西の外国人という表現で、聖書(旧約)の歴史を持たない国々の人々のことを話しています。 いつか、その内の大勢が天国に入る(席につく)と説いています。 そして、多くの天国に入るはずの人々(聖書(旧約)の歴史を持つ人々)が、天国に入れずに(暗闇に追い出され)苦しむことになると言っています。 これは、天国に入る事は、国や歴史や人種等では決まらないことを意味しているのです。 イエスは天国にはいる(永遠の命を得る)のは信仰深い人であるとたびたび説いています。 イエスは永遠の命(天国に入ること)ほど大切なものはないと言いました。 ユダヤ人の指導者や多くの人々はイエスの言葉を理解しませんでした。「はっきり言っておきたい。わたしの言葉を守るなら、その人は決して死ぬことがない」 ユダヤ人の指導者たちは言いました。「我々の父アブラハム様(歴史上の指導者、預言者)や多くの預言者たちさえ死んだではないか。 いったい、あなたは自分を何様だと思っているのか」「わたしに栄光を与えてくださるのは天の父です。 あなたたちは、この方のことを『我々の神様』と呼んでいる。 あなたたちの先祖アブラハムはわたしの来るのを見て喜びにあふれたのです」 「まだ50歳にもなっていないあなたが、アブラハムを見たのか」「アブラハムが生まれるずっと前から、わたしはいたのです。 これはまぎれもない事実です」 以上ヨハネによる福音8章より イエスのこの言葉を理解しないユダヤ人の指導者たちは、手に手に石を取り上げイエスに投げつけようとした。(この表現は、この時イエスには大きな危険がせまっていた事を表しています。当時は、石打の刑が公然と行われていたのです) しかし、イエスは身を避けて宮を抜け出した、と記されています。 この時、イエスの話を理解しないユダヤ人の指導者たちから、すでにその命をねらわれていたのです。 イエスは、天国の話が人々に理解されなくても、それはまぎれもない事実(真実)であると言っています。 イエスの言葉、特に天国の話は、この地上での理屈や価値判断だけでは、正しく理解する事が困難なのです。 イエス自身が、人々は理解出来なくされている(隠されている)と言っています。 イエスは、弟子たちに話す時と、人々に話す時とは使い分けたのです。 それは、イエスが人々に対しては、天国についての話は、多くはこの地上のたとえ話しを使った事でも解ります。 また、その弟子たちも正しく理解出来ずに、後に、イエスの死(復活)後に、その意味を理解出来た事もあったのです。 イエスは決して死ぬことがないという表現で、生死の世界(地上の人間世界)から永遠の命の世界(天国)へ入ることを説いています。 そのためにはイエスの言葉(普遍の真理)を守って生活するようにと説いています。 天国(神の国)についての話を理解出来ないユダヤ人の指導者たちからは、(自分を、神〈天の父〉の子供と表現した事に対して)神を冒涜しているとの中傷をうけ、彼らから命を狙われるその口実の一つともなりました。 イエスの言葉は、当時の人々の多くに正しくは理解されませんでした。 一時は信じても、様々な理由から信じ続けることが出来ない人が多かったのです。 当時の社会的に実力のあったパリサイ派の人々等をおそれて言い出せなかったり、現実の生活に追われ信じ続けることが出来なかったのです。 イエスはそういう人々に語りかけました。 「私を信じる人が、一人として暗やみの中にとどまりさまよう事のないように、この暗い世に光として来たのです」 イエスはこの世を暗やみと言っています。 この世に人を裁くためではなく、人を救うために来たと言っています。 イエスは、私を信じる人という表現で、イエス(言葉、真理)を信じる事(信じる心)が大切なことであると説いています。 イエスは、神の国(天国)について、理解するようにとは決して言っていません。 イエスの話しを、理屈で理解するようにとは言わず、信じる(信仰する)ようにと言っているのです。 すべてを理解しなければ、信じないとすれば、理屈を理解しようとしている内に、この世の寿命は終わってしまうでしょう。 この世の理屈では理解が困難であるからこそ、信じる(信仰する)という言葉が使われているのです。 イエスは、その信じる心(信仰心)が大切(必要)な事であると言っているのです。 イエスを信じる人が、暗やみ (この世の中) にとどまりさまよう事がないように、救うために光としてこの世に来たと言っています。 しかし、イエスを拒み、その言葉を受け入れないすべての人を裁くものがあるとも言っているのです。 「私の語った言葉(真理)が、終わりの日にその人を裁くのです。 なぜなら、その言葉(真理)は、私が、自分勝手に考え出して語ったのではなく、天の父が語れとお命じになったことだからです。 天の父の命令は、永遠の命を意味する(永遠の命に人を導く)事を私は知っているのです」 以上ヨハネによる福音12章より イエスは自分の語る言葉(真理)は、イエス自身が勝手に語っているのではないとはっきりと言っています。 こちらでは天の父の命令と表現されていますが、そのイエスの語った言葉(普遍の真理)は永遠の命を意味する(永遠の命に人を導く)と説かれているのです。 イエスは自分自身がこの地上に生まれそして死ぬことについて、次のようにたとえています。 「はっきり言っておきたい。一粒の麦は、地に落ちて死ななければ、いつまでも一粒のままである。 しかし、死ねば、多くの実を結ぶ」 この地上においてはみじめなかたちで死ぬ事になるイエスを暗示しています。 そして次のような言葉によってこの世の命から永遠の命へ至る事を説いています。 「この地上の自分の命を愛する者は、結局はそれを失う。 しかし、この地上の命に執着しない(顧みない)人は、それを保って永遠の命に至る(栄光を受ける)」 ここで語られている自分の命を愛するとは、自分の命に執着する事を意味しているでしょう。 イエスは永遠の命に至るためにはやがて死すべきこの世(地上)の命に執着しないようにと説いています。 「私の弟子になりたい(仕えたい)人は、私について来なさい。 そうすれば、私のいるところに、私に仕える人もいることになる。 父は私に従う人を大切にあつかってくださる。」 「光の子となるために(自分の行こうと思う所へ行くために)、まだ時間のある間に(暗闇が襲ってくる前に)、光を十分に用いなさい(光を信じなさい)」 以上ヨハネによる福音12章より イエスの弟子になり、従う人とはどのような人でしょう。 イエスの言葉(教え)のように生活する人は、イエスの弟子であるとイエス自身が言っています。 イエスの光(言葉、真理)をたよりに自分の行こうと思う所(永遠の命)に至る道を見つけるようにと説かれています。 イエスは地上(人間世界)の生まれ変わりについて、また肉体と霊について説いています。 ある夜、ニコデモというパリサイ派のユダヤ人の指導者(最高法院の議員)がイエスを訪ねて来て言いました。 「先生、わたしたちは、あなたが神から遣わされた教師であることを知っています。 あなたが行われる奇跡をみれば、神が共におられる事が明らかです」 その言葉に対して、イエスは次のように言っています。「あなたは、新たに生まれ直さなければ、絶対に神の国へは入れません」 このニコデモという人は、パリサイ派の指導者の中においては、ある程度イエスに友好的であったと思われます。 イエスの教えにもある程度の理解を示していました。 夜訪ねて来たのは、他のパリサイ派の人々に対し目立たないように気を使ったものと思われます。 ここでの、「新たに生まれ直さなければ、絶対に神の国へは入れません」というイエスの言葉は、その受け止めかたによっては喜んでいいのかもしれません。 それは、ニコデモの場合は新たに生まれ直すことで、少なくとも神の国へ入れる可能性があることを意味しているとも言えるのではないでしょうか。 この時は、イエスの生まれ直すという言葉を理解出来なかったニコデモが驚いて「年をとった人間がどうして生まれることができるでしょう。もう一度母親の胎内に入って生まれることが出来るでしょうか」と聞いたのに対して、 イエスはこう答えています。「はっきり言っておきたい。だれでも水と霊とによって生まれなければ、神の国に入ることは出来ない。 肉(人間)から生まれたものは肉(人間)に過ぎない。霊から生まれたものは霊である。 『あなたたちは新たに生まれなければならない』と私が言ったからといって、驚くことはありません。 風は、その音を聞いてもどこから来て、どこへ行くのかわかりませんね。 霊から生まれたものも皆その通りです」 イエスはこの地上に生まれた人間(地上の肉体上)は、それだけでは地上の人間(肉体上)に過ぎないと言っています。 イエスは、新たに生まれなければならないという事は、驚くことではないとはっきりと言っています。 ニコデモは「どうして、そんなことがありえましょうか」と言い、それに対してイエスが話しました。「あなたはユダヤ人の教師でしょう、こんなこともわからないとはね、、。 私は知っていること、見たことだけを話しているのです。 それなのに、あなたたちは信じてくれません。地上(人間世界)で現に起こっていることなんですよ。 それも信じられないくらいなら、天で起こることなど、話したところで、とても信じられないでしょう」 以上ヨハネによる福音3章より イエスは、新たに生まれ直す(輪廻)ということは、現にこの地上(人間世界)で起こっていることであると言っています。 イエスは霊から生まれたものは霊という表現で、神の国(天国)へ入る人間の命の真の本質(清浄な魂、永遠の命)は霊であると説いています。 「神(天の父)は霊である。だから、霊と真理とをもって礼拝しなければならない」以上ヨハネによる福音4章24より イエスは神(天の父)は霊であるともはっきりと言っているのです。 イエスは、天の父(神)に祈るときは霊(霊的な、真心から)と真理とをもってするようにと説いています。 神の国へ入る人について、イエスの言葉があります。 ある日、イエスに祝福してもらうために、人々が子供たちを連れてきました。 ところが弟子たちは、じゃまだとばかりに追い返そうとしました。 それを見たイエスが弟子たちに対して言っています。「子供たちを自由に来させなさい。邪魔をしてはいけない。神の国は、子供たちのような者の国なのだ」 イエスは、神の国は子供たちのような者(純真で、邪な気持の無い、素直な心の者)の国であると言っています。「はっきり言っておくが、子供のように神の国を受け入れる人でなければ、けっしてそこに入ることはできない」 以上マルコによる福音10章より(マタイ19章、ルカ18章) そしてイエスは、子供たちの頭に手を置き祝福した、と記されています。 子供のようにとは、多くの知識は持たなくても素直な心が必要であるということを表しているのです。 イエスは子供のようにという表現で、素直に信じる心(信仰心)の大切さを説いています。 子供のように(素直に)受け入れる人でなければ、けっして神の国(天国)へ入ることはできないと説かれています。 イエスは次のようにも言っています。「天地の主である父(神)よ、あなたをほめたたえます。あなたの真理を、自分を賢いとうぬぼれる者や世渡りのうまい者には隠して、小さい子供のようにあなた(神様)を信じきる素朴な人に示してくださいました。 ありがとうございます。 父よ、これがあなたの心にかなうことでした」 以上マタイによる福音11章より(ルカ10章) 通常では見ることも触ることも知ることも出来ないもの、それを人々は神秘とよびます。 イエスは神の真理は隠されていると言っています。 特に自分は知恵があると思う人、賢いとうぬぼれる人には隠されている。 小さい子供のように、素直に信じきる素朴な人にそれは示される、と説いています。 それが隠されていることは、この地上で生きている人間の為に必要な(大切な)ことである、と素直に受け止めるべきなのでしょう。 その隠されたものが、なんらかの形で示されたとき、その信じる心(信仰心)が深められる時でしょう。 またイエスは、そのこと(隠されていること)が天地の父(神)の心にかなう(真理である)と言っています。 イエスは、イエス自身の喜びの心をありがとうございますと表しています。 重い荷を負っている人にたいするイエスの言葉があります。「重い荷を負って疲れている人、苦しんでいる人は、だれでも私のもとへ来なさい、あなたがたを休ませてあげよう。 私はやさしく謙遜だから、あなたがたにふさわしい荷物をあげよう。 それを背負って私の教えを聞きなさい。 そうすれば、あなたがたは休息が得られ、あなたがたのたましいは安らかになります。 私の荷物は背負いやすく、軽いからです」 以上マタイによる福音11章より イエスは、この世的な様々なことに疲れて苦しんでいる人々に語りかけました。 イエスは、この世の権威の作り出した(真理に則していない)社会常識、(弱い人、貧しい人を苦しめる)社会慣習、等の重い荷物をおろすようにと言っています。 そして、イエスの説く真理に即した、それぞれの人にふさわしい荷物を背負うようにと説いています。 イエスは、苦しみの元となっている重い荷(様々なものに強く執着し、多くのものによって束縛される不自由な心)をおろし、 背負いやすい軽い荷(多くのものに執着しない、多くのものからの束縛をうけない心、真理に基づく真に自由な心)を背負ってイエスの説く教え(真理)を聞きなさいと言っています。 その荷物は背負いやすく、軽いから、 人々は休息が得られ、そのたましいは安らかになると説かれています。 復活についてのイエスの言葉があります。「めとったり嫁いだり(結婚)は、この地上に住む人たちのものです。復活して天国へ行くのにふさわしいとされた人々は、めとったり嫁いだり(結婚)することはないのです。 天使と等しい者となるのです。 もはや死ぬこともありません。 復活の新しい命を受けたのですから、神の子供なのです」 以上ルカによる福音20章より(マタイ22章)(マルコ12章) 当時パリサイ派とならびユダヤ人社会で力を持っていたサドカイ派(霊や復活を否定していた)の人々の問いに答えたものです。 イエスは復活のあることをはっきりと言い切っています。 地上のような結婚はなく、天使と等しい者になるとは、天使のような身体(地上の肉体〈老、病、死〉とは違う、天国にふさわしい身体)が得られ、天使のように天国に住む者になると説かれているのです。 そして、もはや死ぬことはない(永遠の命が得られる)と言い切っているのです。 もはや死ぬことはないとは、イエスの説く天国(神の国)は永遠の命の世界であることを意味しています。そして、この地上の、苦を伴い必ず死ぬことになる肉体上に生まれ直す(輪廻する)必要がない事を表現しています。 復活の命を得た者(天国へ入った者)は神の子供であると説かれています。「死者が復活することについては、モーゼの書の『柴』の個所で、神がモーゼにどう語られたか、読んだことがないのですか。『わたしはアブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神である』とあるではないですか。 彼らはモーゼの時代、ずっと以前に死んでいたのに、神様はモーゼに彼らはなお生きていると教えられたのです。 そうでなければ、すでに存在していない人の『神である』などと、言われるはずがないのです。 あなたがたは、この点でたいへんな思い違いをしているのです」 以上マルコによる福音12章より(マタイ22章)(ルカ20章) こちらでは大切な真理が示されています。イエスは、聖書(旧約)の出エジプト記3より引用しています。アブラハム、イサク、ヤコブは、モーゼ以前の歴史上の信仰深い族長(預言者)たちでした。 イエスは復活のあることを説くために、この個所を用いたのです。 モーゼの時代には、すでにアブラハム、イサク、ヤコブはこの世にはなく、死んでいたのですが、その真の命(霊)においては復活して生きていると言っているのです。 イエスは、その真理は、通常では理解が困難なために、皆が、たいへんな思い違いをしていると説いているのです。 この時、イエスによって説かれた大切なことは、復活はいつの時代でも、モーゼ以前の時代も、イエスの時代も、そしてイエス以後(現代)においてもあるということなのです。 金持ちとラザロの話し「金持ちがいました。きらびやかな服を着て、ぜいたくに遊び暮らしていました。 ある日のこと、ラザロという貧しい人が、病気にかかり、できものだらけの体で、この金持ちの門前に横たわり、その食卓から落ちるものでもいい、何か食べ物にありつきたいと思っていました。 犬もやって来て、そのできものをなめ回します。 やがて、この貧しい人は死んで、天使たちによって、アブラハムの宴会の席(天国)に連れて行かれました。 そのうち、金持ちも死んで葬られました。 そして、金持ちは死者の国で、さいなまれ、苦しみあえぎながら目を上げると、アブラハムとその宴会の席に着いているラザロが、はるかかなたに見えます。 金持ちは大声を張り上げました。 『アブラハム様、私をあわれんでください。ラザロをよこして、指先を水に浸し、私の舌を冷やさせてください。 私は、この炎の中でもだえ苦しんでいます』 しかし、アブラハムは答えました。 『思い出してみるがよい。 お前は生きている間、ほしい物を手に入れ、思い通りの生活をした。 だが、ラザロは反対に、良い物はもらえず、無一物だった。 それで、今は、彼はここで慰められ、お前はそこで苦しむのだ。 それに、私たちとお前たちの間には、大きな淵があって、どうにもならず、 こちら側からも、また、そちら側からも、行き来は出来ないのだ』 金持ちは言いました。 『アブラハム様、ではお願いです。 私の父の家にラザロをつかわして下さい。 私には兄弟が5人いるのです。彼らまで、このような目に会わせたくないのです。 どうぞ、この恐ろしい苦しみの場所のあることを、教えてやって下さい』 しかし、アブラハムは答えました。 『お前の兄弟たちには、モーゼと預言者(聖書)の言葉(真理)がある。それに耳を傾けるがいい』 金持ちは、さらに言いました。 『でも、ご先祖のアブラハム様、彼らは聖書の言葉(真理)に、あまり耳を傾けないのです。 もし、だれかが、死人の中からつかわされて行ったら、彼らも悔い改めるでしょう』 アブラハムはきっぱりと言い切りました。 『もし、モーゼと預言者の言葉(真理)に耳を傾けないのなら、たとえだれかが、死者の中から生き返って話したところで同じことだ。 彼らは聞こうとしないだろう』」 以上ルカによる福音16章より イエス当時のユダヤの人々に対しての、アブラハムと宴会の席につく、との表現は、天国に歓迎され、迎え入れられることを意味しています。 イエスは、天国に入ることほど大切なことはない、とたびたび説いています。 死者の行く国を、死者の国と呼んでいます。 イエスはモーゼと預言者の言葉(普遍の真理)を神の掟とも呼んでいます。 そして、それ(真理)が、いかに大切なものであるかを説いています。「律法の文字の一画が無くなるよりは、天地の消えうせるほうがやさしい」 以上ルカによる福音16章より イエスは、たとえ天地が滅んでも、神の掟(神の国、真理)はびくともせずに、残ると言っています。 人間の側からではなく、神によって正しいとされること(真理に則したこと)を行うように、と説いています。 イエス当時の、多くの宗教指導者は、宗教的、社会的、また少なからず政治的にも権力をもち、人々を導く重要な仕事をしていたのです。 イエスは、彼らに対して、正しく人々を導くようにと説きました。 しかし、実際には彼ら(宗教指導者)は、正しく守っていないのに、様々な理由を付けて (自分たちの都合のいいように神の掟を解釈して) 守っているのは自分たちだと言っていました。 イエスは強くその偽善性を指摘したのです。 それに対して、彼らはイエスを逆恨みし、その自らの地上の権威、地位を守るために、イエスの命を狙うという、およそ、真理に則した人間では有り得ない、たくらみを持ちました。 そして、それをその通り実行した(結果としてイエスを十字架につけて殺した)という事実が、「彼らは神(天)に属さず、地に属す偽善者である」と言った、イエスの言葉(指摘)通りであった事を証明しています。 偽善者は、密かに、たくらみを持つ事を好み、悪いたくらみに優れているのです。 偽善者は、正しい心が伴っていないのに、表面上は正しいと見えるように行動し、人々に対して自分は正しいと見せびらかし、認めさせて、人々からの賞賛を受けるのです。 しかし、神はその偽善者の心(悪い思い)を見抜いて(知って)いる、とイエスはたびたび言っています。 表面上の良し悪しを決定的な問題とはせずに、何より大切な、その心の中の思いを正すようにと説いています。 また、イエスは、完全なのは(罪を犯さないのは)神お一人である、と言っています。 人間は、この地上に生きている以上、様々な罪に誘われるのはさけられない、とも言っています。 今現在、この地上に生きている人間は、今この時の、自分自身を正さ(罪から離れ)なければ《少なくとも、その努力をしなければ》、大切な機会を失うことになるでしょう。 イエスは、金持ちとラザロの話しによって、(地上に生きている時(今)こそ)聖書の言葉(普遍の真理)に耳を傾けるようにと説いているのです。 祈りについて イエスは、たえず祈り続けるようにと説いています。 正しい信仰をもって祈り続ける者を、神様はかならず正しく取り扱って、守って下さると言っています。 また、自分を正しい者とうぬぼれて、他の人を軽蔑し見下している人々に対して、次のようなたとえ話をしました。「二人の人が祈るために神殿に行きました。一人は自分は正しい者と主張するパリサイ人でした。 もう一人は取税人でした。 パリサイ人は、胸を張って次のような祈りをしました。 『神様、私はほかの者たちのような、泥棒や不正な者や姦通を犯す者ではなく、また、ここにいる税金取りのような罪人でもないことを感謝します。 私は、週に二回は断食し、収入の十分の一をきちんとおさめています』 一方、取税人は遠く離れて立ち、目を伏せて悲しみに胸をたたきながら言いました。 『神様、罪人の私をあわれんで下さい』と。 言っておきますが、罪を許されて帰ったのは、パリサイ人ではなく、この罪人のほうです。 だれでも、高ぶる者は下げられ(卑しい者とされ)、へりくだる(謙遜な)者は上げられるのです」 以上ルカによる福音18章より ここでの、パリサイ人の祈りは、他の人を罪人として冷たく裁いています。自分の正しい事のみを自慢し、実際には様々犯している罪のうちの一つにさえ、気付いていません。 一方取税人(徴税人、当時ローマの手先のように見られ、また規定以上の取立てが一般化し、人々から罪人と目されていたのです)は、自分の罪を自覚して悲しみ、悔い改めの祈りをおこなっています。 決して、罪を犯すことを正当化するものではありません。 イエスは、罪を犯して自責の念に苦しむ人に対しては、真に悔い改めて許されたなら、二度と犯さないようにと戒めています。 真に悔い改めるということは、形のうえの簡単なことでは成就しないでしょう。 へりくだる者、謙虚な者とならなければ、悔い改める心もおこらないでしょう。 その罪が許されるほどに、自分を悔いることは、苦しく悲しいことにちがいないのです。 イエスは、悔い改めることを大切な(必要な)こととして、強く求めているのです。 こちらでは、過去の罪の大小の問題ではなく、常に、今現在求められる、悔い改めの心が説かれているのです。 イエスが洗礼を受けたバプテスマのヨハネは、水で洗礼(身体を清め、悔い改め、罪の許しを得て、神との正しい関係を築くための儀式)を授け、悔い改めよと説いた人でした。 ( 彼は、イエスのことを、聖霊で洗礼を授ける方と表現しています。バプテスマのヨハネは自分の弟子から、イエスについて問われた時、こう答えています。 「天の神様が、一人一人にそれぞれの役割を決めてくださる。私の役目は、だれもがあの方のところへ行けるように道を備えることだ。私はキリスト(メシア、救世主)ではないとはっきりと言ったはずだよ。 あの方は天(神の国)から来られた方。私は地から出た者。地上にかかわることしかわからない。あの方は見たこと聞いたことをお話になる。でもその言葉を信じる人のなんと少ないことか、、、。 あの方を信じれば、神様が真理の源だとわかるのに。神様からつかわされたあの方は、神様の御言葉をお話になる。あの方の上には、神様の御霊(聖霊)が無限に注がれているからだ。 あの方に救っていただけると信じ、何もかも任せきる者はだれでも、永遠の命を得る。だが、あの方を信じない者、従わない者は、絶対に天国を見ることはできない。そればかりか、神様の怒りがその人の上にとどまるのだ」 以上ヨハネによる福音3章より ) イエス自身が宣教を始める前に、洗礼を受けた(すべての福音書に記されています)ということは、それが大切なものであることを示しています。 正しく祈ることに、大きな意味があることが、ここで語られているのです。 なによりも大切なことは、一人一人が心(思い)を清める(洗礼する)ことなのです。 イエスは、真に人をけがすのは、その思いから出る言葉と行いであると言っています。 正しく祈ることで、人はその思いを清めることが必要です。 イエスは、たえず祈り続けるようにと説いています。 過去は過ぎてしまって今はありません。だれでも、犯してしまった罪を取り消すことは出来ません。 常にそこにあるのは今という時だけなのです。 たえず祈り続けるようにということは、常に、今(大切な現在)祈るように、さらには、悔い改めるようにと説かれているのです。 神の国へ先に入る人 罪を悔い改める(捨てる)ことが、いかに大切な事であるかを示すイエスの言葉があります。 この言葉は、世間の人々から正しい人とみなされていた人々、祭司長や指導者(パリサイ人)たちに対して語られています。 イエスの宣教以前に、バプテスマのヨハネが神に立ち返れと説きました。 その時に、罪人とみなされていた多くの人々(特に取税人や娼婦等)が、それを信じ、自らの罪を悔い改めました。「確かに、悪人や娼婦たちのほうが、あなたたちより先に神の国に入ります。なぜなら、バプテスマのヨハネがきて今までの罪を捨てて(悔い改めて)神に立ち返れと言った時、あなたたちはその忠告を無視した。しかし、悪人や娼婦たちはそれを信じ、言われた通りにした(神に祈り、罪を悔い改めた)からです。 あなたたちは、それを目の当たりにしても、なお罪を捨てようとしなかった。 考えを改めて信じようとしなかった」以上マタイによる福音21章より イエスは人間の側の考える善悪の評価は、それだけでは、神の国に入るために当てになるものではない事をはっきりと示しています。 素直な心で神を信じ、神に祈った悪人や娼婦が真実の信仰を得たことが説かれています神の国に入るためには、神から与えられる(聖霊の)真理の言葉を信じる心と、悔い改めて神に立ち返ること(正しい祈り)が何より大切(必要)であると説かれているのです。 掟と言い伝え パリサイ派の指導者や律法学者たちが、イエスのところに出向いてきました。何か追求できる事を調べようとの、下心があったのです。 そして、イエスの弟子たちの中に、食事の前に手を洗わない者を見つけました。 当時、こまごまとしたしきたりや言い伝えがあり、その中に食事の前に手を洗う事もあったのです。 「どうしてあなたの弟子は、昔からの言い伝えを守らずに、手を洗わずに食事をするのか」と、イエスに詰め寄りました。 イエスは平然と答えました。 「あなた方こそ偽善者です。預言者イザヤが言ったのは、あなたたちのような偽善者のことです。 『彼らは口先では私を敬うが、 心は遠くはなれている。 彼らがわたしを拝んでも、むだなことだ。 神の掟の代わりに、 人間の規則を教えているのだから』 あなたたちは神の掟を捨てて、人間の言い伝えを固く守っている」さらにイエスは、パリサイ派の指導者や律法学者たちに対して言っています。 「あなたたちは自分の言い伝えを大事にして、よくも神の掟をないがしろにしたものですね。 モーゼは『父と母を敬え』と言い、『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』とも言っているのです。それなのに、あなたたちは次のように言っている。 『もし、だれかが父または母に対して、「あなたに差し上げるべきものは、神への捧げ物にしました」と言いさえすれば、両親が困っていようが、おろそかにしてもかまわない、と教えているのです。 こうして、あなたたちは自分たちの作った言い伝えを守るために、神の掟を破っているのです。 ほかにも、これと同じようなことをたくさんやっているのです」ここでイエスは、モーゼの言葉を引用しています。『父または母をののしる者は死刑に処せられるべきである』との表現はモーゼの時代以前の世相を反映したものです。 イエスはこの言葉を、それほど父や母を敬い大切にすべきであることを表すために使っているのです。 その後、イエスは群集を呼び寄せて話しました。 「さあ、私の言うことをよく聞いて悟りなさい。 どんなものでも、外から人の体に入るものは人をけがすことが出来ないのです。むしろ、内から出てくる言葉や思いによって、人はけがれるのです」それから、群集と別れて家に入ると、弟子たちが、「さっきの言葉はどういう意味でしょうか」と尋ねました。するとイエスが言いました。 「こんなことがわからないのですか。 すべて外から人の体に入るものは、人をけがすことが出来ない事がわからないのですか。 それは、人の心の中に入るのではなく、腹の中に入り、そして外に出るだけではないですか」 この時イエスは、腹の中に入る食べ物や飲み物について、それを軽んじて、注意をしなくてもかまわないと言っているわけではないのです。 イエスは日々の食べ物が、この世で生きるために欠かせない大切なものである事も語っています。 この時のイエスは、食べ物や飲み物で人がけがれるわけではない(それが直接人をけがすものではない)事を示しているのです。イエスは、続いて付け加えました。 「人の心から出てくるものが人をけがすのです。人の内側から、つまり人間の心の中から悪い思いが出てくるのです。 みだらな行い、盗み、殺意、姦淫、貪欲、悪意、詐欺、傲慢、好色、ねたみ、うそ、悪口など、これらの悪はすべてその心から出て、人をけがすのです。しかし、手を洗わずに食事をしても、それは(真の意味で)人をけがすものではないのです」以上マルコによる福音7章より(マタイ15章)イエスはもちろん、手を洗わないことが良いと言っているのではありません。 パリサイ派の指導者や律法学者たちは「その手を洗わないことで、病気になるかもしれない」と詰め寄ったことでしょう。 しかし、それでも、病気で苦しむことはあっても、病気には人をけがす力はありません。 イエスは、それは、人を真にけがすものではないことを示しているのです。 当時の言い伝えでは、ある病気の人たち等を、けがれた病気によってけがれた人として遠ざけて、冷たく差別していました。 イエスはけがれた病気などはないことをその行動で示しました。 あらゆる病気の人、身体の不自由な人の所へ出向き、優しく接し、神の真理を説いています。 人がけがれるのは、その心の悪い思いによるのです。 パリサイ派の指導者や律法学者たちは、イエスの弟子が手を洗わなかった事をとりあげて、イエスに詰め寄りました。 その事でイエス自身やイエスの教えを否定しかねない、指導者たちの思い(悪意と愚かさ)が明らかにされています。 そのような、細かなことで人を責めるより、真の宗教指導者であるならその心(思い)を清めることを、第一に大切に考えるようにと説かれているのです。 この時のイエスは、彼らに対して、人々の作った多くの規則を固く守り、それらの細かな言い伝えに強く縛られて(執着して)、また、民衆をも強く束縛し、かえってそのために神の掟(真に大切なもの)を二の次にしているという、彼らの間違いを指摘しているのです。 イエスは人をけがすものとして、重要な三つのことをあげています。人の心の中にある悪い思い、その口から出てくる悪い言葉、その身体でする悪い行いです。 正しい祈りによって、その思いを清める(正す)ことがいかに大切(必要)なことかがわかります。 悪い言葉も悪い行いも、その心のなかの悪い思いが外に出たものなのです。 イエスははっきりと、悪い言葉や行いはすべてその心から出て人をけがす、と言っています。 したがって、自分がけがれのない者となる為には、その心を正すことがなによりも大切なこととなるのです。 このことから偽善というものもよくわかります。 偽善はその心を正していないのに、見せかけ(言葉や行い)だけをいかにも正しい人であるかのようにふるまうことなのです。 たとえ表面の言葉や行いだけを正しても、その心(思い)が伴っていなくては(正しくなくては)、真に正しい(清い)こととはならず、偽善となってしまうのです。 偽善者が見せかけの正しそうなことを言い、正直そうに行動して、世の人々をあざむき、この地上で一時は成功したように見えても、その心の中の悪い思い(目的、本心)がその人をけがすのです。 これ(偽善)は、その心(思い)をよりひどくけがしてしまうのです。 偽善は、うそ(心の中の悪い思い)の上にうそ(より悪い思い)を重ねるようなものでしかありません。 真の悔い改めからは遠く離れてしまうのです。 イエスは偽善(偽善者)に対しては、常にきびしく戒めています。 イエスは、偽善者は神に属さない(けっして神の国に入ることは出来ない)と説いています。 神に立ち返って悔い改めるようにとは、神に正しく祈り、罪(悪い思い)を捨て、その心の中の思いを、真に清める(正す)ようにと求められているのです。 その心の中の正しい思いから、正しい言葉を話し、正しい行いをするようにと求められているのです。 |